こんにちは。校舎長の小林です。 | 東進ハイスクール市ヶ谷校|東京都

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2016年 11月 28日 こんにちは。校舎長の小林です。

 

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こんにちは。
小林です。校舎長です。
なんだ、小林か。はい、見るのやめない。。

市ヶ谷に来て2年半。
3度目の登場です。宜しくお願いします。

11/28(月)
あと、7週間後にはセンター試験。緊張しますね。
人生最大の試練に立ち向かっている受験生はかっこいいです。
何度言われたことかわかりませんが、とにかく最後までやりましょうね。

市ヶ谷のスタッフはみんな若く、小林だけぐいっと年上なので、
想像つかないかもしれませんが、実は私も受験生でした。(当たり前)
2002年の話です。
日韓ワールドカップの年です。
記憶にないですよね、皆さんは。

本日は、私がなぜ、この仕事に就いたかという作文をブログに掲載します。
ニーズねえよ、おっさん!! と思った方も息抜きに5分だけお時間ください。
2012年に書いたものなので、数字がやや今見ると違和感あると思いますがご了承下さい。

お前の夢なんてしらねえ!いやいや。
みんなもすぐ社会人になります。仕事に就きます。何かの役に立てれば。
宜しくお願いします。

 

 

 

この年齢になって、再度夢は何かと考えることになるとは思わなかった。
自分はいったい何になりたいのか。しかし、考えます。そして書きます。
小学6年の卒業文集にはこう書いた。「Jリーガーになる!」と。
世間はJリーグブーム。地元浦和レッズの強烈なサポーターであり、幼稚園の年中からサッカーをやっていた私はただなんとなく大宮サッカー場を駆け回る選手たちに憧れていた。
しかし、中学に入学し、バレー部に入部。Jリーガーの夢はどこかに消えていた。

 

ただ同時期に、今思えば運命的な出会いをしていたのだ。
それは地元の学習塾の先生との出会いである。数学の講師であり、教室長であった先生。
小学校数学もまともにできず、家では一度も机に向かったことのない私に見かねて、母が無理矢理入塾させたのだ。
勉強なんて一度もしたことなかった。でも、なぜだか塾は嫌にならなかった。むしろ好きだった。
数学が得意科目にならないまでも、いつしか苦手科目ではなくなっていた。

 

中学生には悩みはつきもの。
友人関係、恋愛、その他色々。私は親でも友人でもなく、なぜかその先生に相談していた。
勉強もプライベートも全部だ。
Jリーガーになりたかった私が入部したバレーボール部は県でベスト8に入るほどの強豪であり、顧問の先生はとにかく厳しく怖かった。
サーブミスで殴られ、レシーブミスでうさぎ跳び。毎日の練習では体育館のトイレでいつも吐いていた。
そんなに根性の無かった当時の私は部活の先生が怖い、練習が嫌だ、そんな理由で学校を休んだこともあった。
塾へはいつも遅れて行った。笑顔で迎えてくれた先生がいた。
部活でクタクタでも塾に行くと元気になれた。テストで悪い点を取っても、その先生に会えるだけでまた次の日から頑張れた。

 

簡単に言えば、私の夢はその当時の私が大好きだったあの先生になることだ。
先生はどんな人だったか。温かい人。面白い人。感情表現が豊かな人。自分を本当に大切に持ってくれる人。
しかもそれが表情、行動に表れている人だった。
「小林、大好きだぞー」のように。私はその先生に憧れている。
だがら、教育業界に就職をした。

 

先生に出会ったことで、まともな公立高校に進学することもできた。
本当に感謝している。12年間全く勉強をしたことが無かった自分が合格できたのは先生のおかげだ。

 

高校に入学すると、超スパルタでやってきた部活のおかげで、バレーボールは県の選抜チームに呼ばれるくらいになっていた。
顧問の先生も自由にやらせてくれたのでとにかくバレーボールが楽しかった。
毎日夜遅くまで練習した。行事にとにかく全力投球の学校だったため、それも頑張った。
それ以上に遊びまくった。今思えばなんとも自由でワガママな生活を送っていたと強く思う。
しかし、こんなに遊び呆けていても将来は不安になるもの。
高3の6月でバレー部を引退し、体育祭に燃え、9月の文化祭に燃えているうちに秋が来ていた。
進学校ではなかったため、本気で努力した生徒が日東駒専に合格するレベル。
私は320人中318位だった。今でも覚えている…あれ、これはまずい。
そのあたりで気づいた。
せっかくあの大好きな先生に高校にねじ込んでもらったのに、自分はどんだけ好き勝手やってきたのだろうか。

なんだかんだで入試を迎える。
結果は東洋大学社会学部、駒澤大学文学部、武蔵大学社会学部、法政大学社会学部全滅…。当然である。
高校の先生には3月入試を薦められた。
当時からいわゆるボーダーフリーの大学はあった。私でも十分に合格できる。

 

しかし、私は浪人を決意した。

 

なんであの時、あんなにも頑固だったかは、あまり覚えていない。
でもなんとなく将来に不安になったのだろう。部活はただ楽しいからやっていただけ。
苦手で嫌いな勉強は徹底的に逃げてきた。

 

よく考えたら今までの18年間、たいした努力なんてしてないじゃないか。
このまま誰でも入れる大学に行ってどうなるんだ?自分は将来何になるんだ。このままでいいのか。
この時初めて、自分の人生について本気で考えた。学校の先生も兄貴も母親も浪人には賛成ではなかった。
特に、父親には本当に怒られた。
高卒で測量士の仕事をしながら宅建を取り、不動産屋を経営している社長である父には。

 

「今は大学の名前で仕事をする時代じゃない。俺だって仕事する相手を見るとき、大学の名前なんて見たことない。
浪人はするな。とにかく大学に行け。どこでもいい。」

 

人生で一番怒られた。
あまり普段は話をするほうではないが、その時は本当に怒られた。
おそらくなんの努力もせずに「イイ大学」とやらに、社会も何も知らずにただなんとなく目指している息子が許せなかったのだろうと思う。
大学名なんて関係ないか、たしかにそんな気もした。

 

しかし、私は浪人した。
ここで妥協したらダメになる。もう1度、浪人させてくれと頼みこんだ。
毎日頼み込んで、条件を1つ飲めば浪人させてくれることになった。
その条件は「毎日、朝から晩まで予備校に通うこと」だ。地元大宮駅周辺には大手予備校がいくらでもあった。
浪人できる良い環境だった。しかし、私は断った。

 

自分が怠けて落ちたのに、なぜまた100万円以上かけて浪人するのか、しかも浪人に反対している両親にそんな金を払わせるわけにはいかなかった。
どうしたらいいのか。

 

この時、私はあの中学時代の塾の先生に相談した。
先生は2浪経験者で、その言葉には本当に重みがあった。先生は浪人を応援してくれた。
そこまでの決意があれば最後まで頑張れると背中を押してくれた。

 

ここで私は決意した。
自分の力だけで、自分一人で勉強して第一志望校に合格するということ。予備校には通わない。
今では死語にちかい。いわゆる「宅浪」である。

 

当然、反対された。誰も賛成するはずない。
でも、私の心は固まっていた。絶対に自分一人でやるんだと。母は最後応援してくれた。

 

しかし、父は最後まで反対だった。
200241日からは猛烈に勉強した。バカはバカなりに情報収集。勉強法の本、参考書のサイト等を読み漁り、勉強を開始した。
7:30起き、8:15~朝の連ドラを見て8:3011:30まで勉強。
11:30から地元の図書館へ。11:3019:30の閉館時間まで勉強した。家でも勉強勉強。

 

家族以外とは誰とも話さなかった1年。
ボーダーフリーの大学に進学した友人、代ゼミ大宮校、河合塾・駿台大宮校に進学した友人なんて一番会いたくなかった相手だ。
とにかく一人でやった。父親との約束だ。絶対に第一志望校に受かる。人生をかけた。
ここで変われなかったら一生変われない。また失敗したら一生失敗するような気がしていた。
成績はどんどん上がっていった。私大3科目型なら、河合塾の全統マーク模試で名前が冊子に載ったこともある。
政経は駿台マークで全国3位を取った。秋以降はA判定を連発した。気づいたら受験は間近に迫っていた。

 

センター試験では英語194点。現役では100点を切っていた自分。
やればできる。第一志望校には落ちてしまったが、法政大学法学部には合格することができた。
本当に嬉しかった。人生が変わった。母は泣いて喜んでくれた。兄も自分のことのように喜んでくれた。

 

あの大好きな先生は「本当におめでとう。
勉強はもういいから一生付き合える最高の仲間を大学では見つけてください」とうメールをくれた。
泣いた。

 

この浪人生活、今思えば本当にいろんなことを学んだ。
自分がどれだけ周りの人に支えられているか。
友達が、家族がいかに大事か。痛烈に感じるでき事が多かった。
親友の貴志君は月1回、家に遊びに来てくれ、ただ話をたくさんしてくれた。
大学1年生。免許を取りたいのは当たり前。でも、私が合格したらその夏に一緒に免許合宿に行こうと約束してくれた。
合格してから二人で免許合宿に行った。
後で聞いた話だが、あまりに私が一人で勉強ばかりしているので母が貴志君の母に頼んで、貴志を定期的に「派遣」してくれていたらしい。

 

本当に感謝している。

 

受験直前、12日には家に「寄せ書き」が届いた。
私からあえて連絡を切っていた高校時代の友人からの応援メッセージ「もしかして死んでないか?合格したらまた遊ぼう!」涙が出るほど嬉しかった。

 

同封されていた氷川神社のお守りを握りしめ、私は大学受験に向かった。

 

一番心に残っているのは大学合格発表の後…私が免許を取った後の出来事。
免許を取った私は大宮のスナックで飲んでいる父に呼び出された…。

 

「迎えに来い」明らかに酔っている。
嫌々だったが初心者マークをつけて、大宮のスナックに向かう。

 

2時間ドラマに出てきそうな見るからに怪しいネオン街のスナック。店に入るとほろ酔いの父。

 

トイレに行く父。

 

あーなんだよ。私はとりあえず店の中で待つ。

 

ちなみに父は合格したとき、たいして喜んではくれていなかった。
まあ、あれだけ反対されていたのだ。別にこんなものかと思っていた。

 

「あら、敦司君。法政大学に合格したんですってね。すごいじゃない。」

 

少し驚いた。なんでそんなこと知っているのか。わからなかった。

 

「お父さんね、今日、その自慢話ばっかりしてるのよ。」

 

本気で泣きそうになった。

 

あまり興味の無さそうな父だったが、本気で喜んでくれていた。

 

嬉しかった。酔って助手席で眠る父を乗せ帰りながら泣いていた気がする。

 

絶対に親孝行しよう。
絶対に友人に恩返ししよう。絶対に社会に役立つ人間になろう。

 

大学受験は私の人生を大きく大きく変えたのだ。

 

塾の先生に憧れ、そして多くのことを学んだ大学受験。
私の就職活動に迷いはなかった。大学受験に関わる仕事。これ1本。

 

そこで出会ったのが、東進ハイスクールを運営する㈱ナガセ。

 

大学受験を通じて努力の天才を育てるという教育理念。
これこそ私がやりたかったことである。あの大好きだった先生も応援してくれた。

 

思いは通じ内定を取った。
思いがあるから研修にも身が入る。早く現場に行きたかった。やる気を見せた。

 

が、やる気を見せ過ぎた。

 

本社研修最終日、私は人事部長に一人だけ別室に呼ばれる。

 

「結論から言おう。奈良だ。行ってくれるか。お前には一番ナガセ愛を感じる!わはは。」

 

「え、はい。」新入社員に「いいえ」が言えるわけはなかろう。

 

私はその2日後から奈良で働き始める。そしてそこで4年間と10か月。
東進の担任として、校舎長として勤務する。そして今に至る。

 

奈良という地域は難関国公立大学への進学熱が極めて高く、私大文系3科目しか勉強してこなかった私は全く役に立てなかった。
生徒に、保護者に、全く必要とされなかった。標準語をいじられたりもした。

 

家族も友人もいない。というか知り合いがいない奈良。頼れる人もいない。

 

挫けそうになったが、私は生徒、保護者の役に立ちたい一心で受験情報、勉強法、とにかく勉強した。努力した。
よくわかんなくても、とにかく今頑張る意味を熱く語り続けた。思いっきりぶつかった。

 

その中でも何人かの生徒は私を必要としてくれた。でも、合格させてあげられなかった。

 

「せんせい、ごめんなさい。あんなに一生懸命やってくれたのに受かれんかった。ごめんなさい。」

 

こんなメールが校舎に届いた。
泣いた。
自分の不甲斐なさで不合格に導いてしまったのに…。もっともっと勉強した。
頑張った。同期社員では一番に校舎長になれた。表彰もされた。

 

しかし、今ふと考える。あの時と同じ気持ちで自分は仕事できているか。
正直、今の方が知識もスキルもある。でも、「思い」はどうか。教育の仕事は人対人。スキルは当然必要だが、結局は気持ちが大事である。

 

今、これを書いてみて改めて思い出した。

 

私の夢は日本一の校舎長になることだ、日本一の担任になることだ。

 

大学受験を通じて努力の意味を体感させ、その過程で自分私自身がいかに周りに支えられているかきづかせることだ。本気の努力で成功体験を与え自信持ってもらうことだ。

 

この仕事をやって6年目。多くの生徒・保護者と出会った。いろんな人の成長を見た。歓喜の涙も悔し涙も見た。私の異動を知って泣いた人間もいた。数年前の保護者が会いに来てくれたりもした。なんという幸せ者だ。

 

 私はこの仕事が好きである。

 

 日本一の校舎長になりたい。

 

日本一の担任になりたい。

 

 それが夢だ。

これからも努力していく。

 

来た生徒全員が、幸せになる、そんな校舎を私は作っていく。

 

 

 

2012.9.23

 

長いこと読んでくれた皆さん。ありがとうございました。私がみんなにしてあげられることは限られますが、
なんでもします。最後まで一緒に走っていきましょう。

校舎長 小林