大学受験の思い出☆織原編☆注:長いです。 | 東進ハイスクール市ヶ谷校|東京都

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2017年 3月 11日 大学受験の思い出☆織原編☆注:長いです。

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本日も市ヶ谷校のブログにお越しくださいましてありがとうございます。

 

市ヶ谷校で担任助手をしております、織原と申します。

 

大学受験が終わった現高校3年生のため。。。と言いたいところですが、もちろん見てないですよね(笑)

 

どちらかというとこれから大学受験という大きな壁に挑んでいく新高校1・2・3年生に向けて書きます。

 

 

 

いや、まだ俺、国立の後期があんだけど。。。怒

 

分かってます。

その人は、このブログをテキトーに流し読みして、「へっなんだよ」って顔で勉強に戻ってください。

最後まで頑張ってる君は誰よりも素敵です。

ぜひ最後まで泥臭く、くらいついてください。

 

 

 

 

さて本題に入ります。

 

私事ですが、もうすぐ大学2年生の1年間も終わるわけで、

 

大学受験の合格発表からは早2年経ちます。

 

 

高校生の頃なんて遥か昔の出来事のように感じます。

 

それほどこの大学2年間は濃くて楽しかったのだろうと思います。

 

ただ、そんな昔のように感じられる大学受験も、

たぶんこの先どんだけ自分が歳を取っても、

よぼよぼのおじいちゃんになっても、

きっと天国に行っても、

忘ることなんてないんだろうなと思います。(笑)

 

 

いつか自分の子どもが生まれたら、東進に入学させて、本気で大学受験させたろ!

とまで思います。

 

 

それだけ、思い入れの深い大学受験。

そう感じられるのは、

人生で初めて本気の努力を経験して、

色んなことに気付き、成長できたからだと思います。

 

 

 

さあ、ここから織原の長い長い、思い出話が始まりますが、どうかここまで読んだなら、閉じないでくださいね(笑)

 

 

 

時は1996年。新宿区早稲田の住宅街の一角に元気な一人っ子として生まれた。阪神淡路大震災から1年。地元、神戸の復興を胸に仰木監督率いるオリックス・ブルーウェーブが日本一に輝いた。まだメジャーリーグに行く前のイチローなどが大活躍した、そんな1996年だった。オウム真理教事件、日本のワールドカップ初出場、ノストラダムスの大予言、そんな激動の1990年代を過ごし、物心もついてきた。ときは2002年。そう、日韓ワールドカップだ。世はサッカー一色。運命的な出逢いだった。保育園に備え付けられたテレビの画面に映った日本人選手は、憧れそのものだった。でも、どんな日本の選手よりも自分の目を奪った選手がいた。ドイツ代表の正ゴールキーパー、オリバー・カーンだ。この大会で神セーブを次々と見せ、ゴールキーパーとして前代未聞の大会MVPに輝いた。「サッカーがどうしようもなくやりたい。」「テレビで見た選手みたいにうまくなりたい。」それが最初に抱いた夢だった。

 

それから地元のサッカークラブに入って、一生懸命にサッカーをやった。点を取ることが楽しくて、試合で活躍することが嬉しくてどんどんサッカーが好きになった。それと比例して技術も上達すると、上の学年のチームにも何度も呼ばれ、選抜チームにも呼ばれたこともあった。すべてがうまく行っていたはずだった。ただ、小学3年生のとき転機が訪れた。「いつき、センターバックをやってくれないか?」コーチが変わり、足がそこまで速くないという理由と体格が大きいという理由で、ディフェンスに回されたのだ。このポジション転換が自分のサッカーへの想いすべてを狂わせた。それからというもの、試合前日の夜に襲いかかる重圧。試合中、とにかくミスは許されない、点を与えてはならないという重圧。あんなに好きだったサッカーが、嫌いになった。自分を苦しめるサッカーというものを恨んだ。次第に練習にも行かなくなり、どんどん周りと差が開いていく。そして、小学5年生のとき、地元のサッカークラブを中学受験という適当な理由をかこつけて辞めた。人生ではじめて挫折を味わい、そして目の前の壁から逃げた瞬間だった。

 

それからなんとなくで中学受験をして、偏差値50ちょいの明治大学付属中野中学というところに入った。小学校3年生の途中から中学受験の塾に通っていたことを考えると、受験としては失敗だった。そんなこんなで進んだ、中学。入ってから気づいた男子校という事実。女子が一人もいない現実を幾度も友だちと嘆き合った。部活はソフトテニス部に入った。当時、サッカー部に入るという選択肢は一切なかった。最初はソフトテニスも自分なりに頑張った。部で一番手になったこともあったし、中野区の大会ぐらいならベスト4までなら行った。ラケットを使った練習よりも、筋トレ・走り込みを重視する部活だったがそのスタイルは嫌いではなかった。でも、また逃げた。試合でミスをできないという重圧。一番手で恥ずかしいプレーはできないという重圧。次第にまた部活から遠ざかっていた。練習をサボると当然、周りともどんどん差がつき、ペアの相方にもたくさん迷惑をかけた。そんなこんなでペアを解消し、なんとか違う相方を見つけたものの、部の中の順位は15番手くらいまで落ちた。結局、中3の最後の大会まで続けたが、結果は1回戦で惨敗。当然の結果だった。悔しくもなんともなかった。自ら逃げ、自ら負けた。

 

私立の中高一貫校なので特別勉強もせず、高校に上がった。高校に上がると、高1の一年間はとにかく遊んだ。学校の帰りに新宿で、映画・カラオケ・ゲーセンなど高校生らしいことはたくさんした。ゲーセンで、地元のヤンキー15人くらいと揉め、警察沙汰になったこともあった。当時クラスの8割がしていたパズドラにもハマり、1年間暇な時間はすべてパズドラに注ぎ込んだ。授業中もひたすらやり続け、大嫌いな英語の授業は、一度もまともに聞かなかった。部活は硬式テニス部に入ったが、最初から逃げの姿勢だった。週2という学校一楽な運動部を選び、週1行くか行かないかの状態を一年間続けた。なんにも残らない、そんな1年間を過ごしてしまった。

 

高校2年生になってもそんな生活は続いた。明治大学付属中野は、その名の通り、明治大学の付属校で、約75%がエスカレーター式に大学に進学できた。定期テスト6割さえ取っていれば、明治大学に行ける、そんな甘々な条件にもかかわらず、高校1年の1年間の勉強のサボりが響き、推薦が危ぶまれた。そんな状態を見兼ねた母親は高2の夏、自分を東進ハイスクール市ヶ谷校の夏期招待講習に行かせた。これがすべての始まりだった。

 

「めんどくせえ。塾なんて。」これが正直な気持ち。中学時代は塾に通っていなかったので小6以来の塾だった。当然、無料の夏期講習だけ受けて、入学する気なんて全くなかった。母親も同じ気持ちだった。夏休みの始め、確か7月の25日くらいだった。朝早く、嫌々市ヶ谷校が入る雑居ビルのエレベーターに乗った。エレベーターが開くと受付には男のスタッフが一人。挨拶を交わし、面談開始。だがしかし、浮かない気分とは裏腹に、当時の4年生の担任助手との面談は面白いほど盛り上がった。勉強の話以外にも、関係ないことをたくさん話した。単純だった私は、一瞬でこの人が好きになり、市ヶ谷校が好きになり、入学を決意した。家に帰って、母親に東進に入学したいということを話すと最初は驚かれたが、「頑張るならいいよ。」と認めてくれた。

 

夏休みの最後に受けたセンター模試の結果は、英語が200点満点中の30点。寝ずに真面目に解いた。わかる通り、中学レベルの英文法もあやふやな状態だった。そしてその模試の数日後運命的な出逢いを果たすことになった。グループミーティングの担任として、中嶋先生が担当になった。自分のことを本気で考えてくれ、人の喜びに一緒になって喜んでくれる人に初めて出逢った。東進入学当初、明治大学に内部進学で行くことしか考えていなかった自分。とある面談を境に千葉大学をチャレンジすることになった。

「明大中野って、明治への推薦をとったまま、国公立大学1つだけなら受けられるらしいんですよ!」

ふと自分が発した言葉に返ってきたのは、

「いいじゃん。いつき、それ目指す気はないの?」

当時の面談はよく覚えていないが、熱い話でうまい感じに納得させられて国立大学の1つ千葉大学を目指すことになった。定期テストでさえろくな点数が取れない自分が、難関国立大学を目指す? 今同じような生徒がいたらと思うとぞっとする。でも中嶋先生は100%信じてくれた。

「いつきならいける。」

本当に心強かった。

学校で千葉大志望だということがバレたときは、クラス中のネタにされた。1ヶ月くらい、あだ名が「チバダイ(笑)」にまでなった。とにかく、自分が千葉大を目指すこと自体あり得なかったのだ。

 

動機は後付けでもいい。「とにかく俺は千葉大を目指すんだ!」

何か新しいことを始めようとすると、過去の失敗が頭をよぎる。サッカーからの逃げ。中途半端な中学受験。中高では部活からも逃げた。とにかく当時の自分に自信がなかった。

「この大学受験だけは、逃げてたまるか。絶対最後までやり抜いてやる。自分のことのように応援してくれる先生もいる。ここでも逃げたら俺は本当にダメになってしまう。」これが受験を全うできた動機だった。

 誘惑はたくさんあった。明治への切符ももう手の中にある。受験から逃げるチャンスはいくらでもあった。そのたびに、この動機を思い出すようにしていた。

夏休み明けから部活も辞め、学校帰りに友だちと遊ぶのもほとんどしなかった。その分、学校にいる間は馬鹿をやった。修学旅行の沖縄でも思う存分騒いだ。高2の1年間は、たくさんの友だちに恵まれ、中高6年間で一番楽しんだ。男子校に入って、明大中野に入って良かったと思えた瞬間だった。そんなこんなな学校生活だったが、学校が終わると、東進に来て必ず閉館まで勉強。千葉大に行きたい一心で受講をコツコツこなし、高マもしっかりやった。一週間頑張ったら中嶋先生が褒めてくれる。「また来週も頑張れよ。」って応援してくれる。そんな中嶋先生の存在も自分の支えになっていた。夏には29点だった英語もセンター同日には118点までとれるようになってきた。でもまだ圧倒的に足りない。5教科7科目の1つすらまともに完成していない。やっと英語が平均点に届いただけだ。

 

 高3に上がると、本当に合格するために、すべてを犠牲にしようと思った。学校にいる間も本気で勉強しないと絶対受からねえ。とにかく勉強のことしか考えてなかった。高3のクラスでは、ほとんど喋らなかった。友だちも作らなかった。最初のうちは休み時間勉強していると、ちょっかいを出しにくるやつはいたが、次第に誰も声をかけて来なくなった。1日のうち学校で、まともに会話をするのは、一緒にお昼ご飯を食べる「おんくん」ぐらいだった。色んなものを犠牲にし、勉強にすべてを捧げ、夏休みも死ぬ気で頑張った。その結果、1年前29点だった英語は189点にまで上がり、他の科目も6~7割はとれるようになった。

 

 秋以降、入試が迫ってくると、何度も逃げようと考えた。11月頃、クラス46人中40人が明治へ内部推薦が決定。クラスはお祭りムード。

「箱根行こうぜ!」「富士急行こうぜ!」「車の免許取りに行こうぜ!」

クラスに響くウキウキで楽しそうな会話。

くそお。大学入試はこれからだっていうのに。仕方ない。俺がわざわざ選択した道だ。

 

 11月の途中から先生たちの推薦会議のため1ヶ月学校がなかった。ここからが本当の地獄の始まりだった。家だと勉強できないし、東進も11時半からしか開かない。担任に頼み込んで、1ヶ月間誰もいない教室に通った。朝、教室のドアを開けた途端、感じた教室中を包み込む静かな冷気。あんなにうっとうしく感じていたクラスメートの存在をどうしようもなく恋しく思った。放課後はまっすぐ東進に行った。誰とも喋らない毎日。もう精神的に限界だった。

自分で決めたことじゃないか。ここで逃げたらまた過去の俺とおんなじだ。今度こそはどんなに苦しくても絶対に投げ出してたまるか。

自分を鼓舞するのももう限界だった。

このとき助けられたのは、親の存在だった。東進から帰ると10時半。遅いのに毎日温かいご飯を用意して待っていてくれた。優しい言葉で支えてくれた。

受験が終わったら絶対、親孝行をしよう。そのとき強く思った。

 

 その年の冬は雪こそ降らないものの、とてつもなく寒かった。ローファーから伝わる歩道の冷気。肌に突き刺さる容赦ない寒風。冬の寒さを人生で一番感じた。ただ同じくらい人の優しさ、温かさに気づかされた季節だった。

 

年が明け、2015年。センター試験はあまり緊張しなかった。やるべきことは全部やった。中嶋先生も当時の大学1年生の担任も全力で応援してくれた。結果は900点満点で743点。自己ベストを100点以上更新し、自分でも自己採点の結果が信じられなかった。得点率83%で千葉大学法政経学部、余裕のA判定。あと1ヶ月、千葉大本番まで駆け抜けるしかない。もう合格しか頭になかった。そっから1ヶ月はほとんど記憶にない。ただ毎日、東進に来て勉強し続けた。

 

2月24日。千葉大本番前日、たくさんの担任助手に励まされた。もちろん中嶋先生にもだ。感謝はしてる。でももう市ヶ谷校には二度と来るまい。勉強をやり切り、最後のエレベーターに乗るとき、そう思ったような気がする。千葉大本番の日の朝。友人や学校の先生からメールで応援メッセージが届いた。試験会場にも担任助手が駆けつけてくれた。

涙が出た。こんな自分でも応援してくれる人がいる。「お前なら大丈夫だー。」って全力で信じてくれる人がいる。もうやるしかない。色んな人の想いを背負って、持てる限りのベストを尽くした。

最後の英語の試験が終わったとき、「絶対に受かった。」と思った。結果はどうであれ、自分に勝った。自分を変えられた。そういう意味でも、もう大学受験は成功だった。合格発表まではほとんど放心状態だった。なにをしていたのかほとんど覚えていない。かなり精神を削った分、大学入学までは休憩しようと思った。

 

合格発表の日、自分の足で西千葉まで見に行った。

「受験番号があった。」涙が出た。すぐさま母親に電話した。

「おめでとう。」

母親は感情を変えなかったが、本当に喜んでくれているのが伝わってきた。

自分から電話する前に、学校の担任からも、東進の担任助手からも電話がかかってきた。最初は全く信じてくれなかったが、とくに担任助手の人は自分のことのように合格を喜んでくれた。

 

 大学受験で得たもののはたくさんある。挙げてもきりがないほどたくさんある。

 

本気で努力することって意外に悪くないなーって気づいた。

こんな自分でも、一つのことをやり切れたことに自信が生まれた。

もうどんな困難が目の前にきても、たぶんこの辛さを乗り越えられたから大丈夫だろうな。なんて思ったりもした。

今まで好き勝手に生きてきたが、親や東進の担任助手の方の支えに気づけた。

 

 

 

さてここまで読んでくれた方、ありがとうございます。

 

新高校1・2・3年生の皆さんは、目の前にこんだけ本気になれる大学受験があります。

 

本気になった分だけ、たくさん成長できる大学受験があります。

 

 

読み終えた人から勉強しましょうか。

 

とりあえず、今日から本気でやってみましょうか。

 

織原は応援し続けます。

 

本日は以上になります。

最後までご覧いただきましてありがとうございます。

また明日も楽しみにしていてください。

 

織原

 

 

 

 

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